憩いのホームページ −久保田三千代−

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話の「間」
2017年07月22日(土)
話の「間」                          
 私は人前で何か話さなければならない時、早口になる癖がある。最近は滑舌が悪くなり、そう早口ではなくなったが、気持ちは以前のままで、次から次へ話が移る。話に「間(ま)」が無いのである。
 教員をしていた頃は、終了のチャイムが鳴る前に授業を終えてしまうことが多かった。講義ばかりでなく、生徒に考えさせたり創らせたりすることが大事なのに、その時間をじっくり待つということができない。しばしば予定より早く授業が終わった。生徒は喜んでいたかもしれないが、褒められたことではなかった。
 これは、私のせっかちな性格のせいか? いや、それだけではない。50分間、彼らを授業に集中させておく自信がなかったのだ。
 十分に考える時間がなければ、理解はあやふやなままである。生徒は退屈し、ゴソゴソし始める。集中どころか逆効果だったわけだ。
最近、テレビで某若手政治家の講演を聴いて驚いた。「間」の取り過すぎではないかと思う程、ゆったりとした静かな話しぶりなのだ。彼は時折、聴衆に問いを投げかける。
―少しの間(ま)―。
 聴衆は答えを考え、次の彼の言葉を食い入るように待つ。彼らがぐいぐいと話にひきつけられていくのが分った。
 このように、つい聴き入ってしまう話し手がいると思えば、居眠りしてしまう下手な話し手もいる。両者の違いはどこにあるか。
 声や滑舌の良し悪し、表情、身振り手振りなど。聴衆をひきつける要素はいろいろあるが、最も大事で効果的なのはこの「間」ではないかと思う。
 演説がうまい政治家は、「間」をたくみに使っている。数秒の沈黙、そしてまたおもむろに口を開く。大声で矢継ぎ早にガンガン主張するより、ずっと説得力がある。
 つまり、ここぞという所で「沈黙」という余白を使って、聴衆の心をつかむのだ。これこそが弁論術というものに違いない。
 ひるがえって私。深い学識や話し方の自信の無さが早口に拍車をかけ、かえって逆効果になっていた。
 これからでも精進して、少しでも自信が持てるようになれば、「間」のある説得力のある話ができるだろうか。いらいらする、せっかちな性分はいまだに直らないのだが……。

(これは、7月22日、毎日新聞岡山版のリレーエッセイに掲載されたものです。テーマは「余白」)

                 

『明』35号編集後記
2017年06月28日(水)
『明』35号編集後記
◆早くも季節は夏。平和の祈りを捧げる季節です。しかし、昨今の政治情勢は、日本が、戦争が出来る国へと舵を切っているような気がしてなりません……。
◆そんな日々、竹本健司先生の著書『俳想ノート』『俳句俳想』を読み返しています。どのぺージからも、先生の声が、姿が彷彿として来ます。
◆昭和五十七年、随想(山陽新聞)に、
「自然を見ていると、烏瓜にも私が見えてくる。蜩にも私の生身が重なってくる。自然が、私の肉体の中へ入り込んでくる。私の肉体が、自然の中へ出て行く。自然と私は、一つの肉体になる。自然を感じていると、時間が、音を立てて通り過ぎていく」と書いておられます。世間的な名誉欲、権力欲、物欲などとは一切無関係だった先生。優れた俳人であり、感性豊かな詩人だったことが、この短い文章からも、改めて実感されます。
◆今号では、三人の方が先生との出会いを書いてくれました。同人の皆さんもそれぞれに先生との思い出があることでしょう。ぜひそれをエッセイにして、編集部にお寄せください。
◆今号から表紙が変わりました。作者は同人の山本美奈子さんです。タイトルは「届く」。
                              

師・竹本健司
2017年05月10日(水)
師・竹本健司  
 俳誌『明』の監修であり、句会「TODAY]の主宰だった竹本健司先生が亡くなられたのは昨年5月21日。もうすぐ一周忌になる。
 先生の指導を受けられなくなって1年間、手探りで『明』の編集をしてきた。続けることが先生との約束だったので、先輩の知恵を借りたり、編集委員仲間で相談しあったりして、とにかく一号一号出すことに全力を尽くしてきた。
 今は35号の編集をしている。
 一周忌にあたるから、先生の特集号とまではいかなくても、せめて何人かの会員に先生の思い出を書いて欲しいと思い、数人に依頼すると快く引き受けてくれ、原稿が届いた。
 ある人は、現代俳句協会中国大会で先生の特選をもらった時の喜びを、ある人は某新聞の投句欄で先生の特選をもらった後、先生から声をかけていただき『明』会員になったことを、そしてある人は、小学校の教頭だった先生との出会いのさわやかさを書いている。
 私の知らない、まだ若かりし頃の竹本健司がそこにはいた。
 教師としての情熱、技量、俳人としての真摯さ、そして、ユーモアにあふれ、情愛にあふれている人間竹本健司がそこにいた。

 師の著書『俳句俳想』『俳想ノート』を読み返してみた。
 あちこちに鉛筆で傍線を引いている。どのページからも師の教えが伝わってくる。そして、俳人として、自己に厳しく、孤独であった姿も見えてくる。
 中学生のころから俳句に親しみ、同人誌を作り、金子兜太など多くの俳人と交流し、多くの文学賞を受賞したが、決してそれを鼻にかけたりはなさらなかった。ただひたすら、俳句と言う文学(詩)を多くの人に広めたい、という純粋な情熱で生きてこられたように思う。
 世間的な名誉欲、権力欲、物欲などとは一切無関係な方だった。
 
 私とは十数年の短いお付き合いだったが、先生との思い出はそれなりにいっぱいある。それは私の大事な宝物だ。
 いつか私も先生のことを書いてみたいと思う。

 (写真は、〈『明』の集い〉で、竹本先生と)


山口敏郎展
2017年04月18日(火)
山口敏郎展
 山口敏郎さんに初めて会ったのは2006年のことだから、もう10年以上前のことだ。
 1956年、岡山県に生まれ、武蔵野美術大を卒業後、スペイン・マドリッドに移住してすでに35年。ヨーロッパ、アジアなどいろいろな国で展覧会を開催し、多くの人たちと交流する中で、「生まれ育った東洋と、人生の半分以上を過ごしている西洋との文化の違いに気がつくようになった」と言う。
 その彼の中学校時代の恩師が私の友人Hさん。ヨーロッパ旅行を共にすることが多かった彼女とスペインへ行った時のことだ。マドリッドのホテルに山口さんが訪ねてきてくれて、「家へおいでください」と言う。
 彼の案内で、電車に乗り、大きいマーケットに寄った。店内のパルで軽く一杯飲んだあと、彼のマンションへ。迎えてくれた奥様の手作り料理でまたまた飲んだ。何の関係もない私なのに、気さくに歓待してくれるのが嬉しく、調子に乗って飲み、喋ったことが懐かしく思い出される。
 以来、1〜2年に一度帰国して各地で開催する山口敏郎展には欠かさず足を運んでいる。今年の会場は南区のCAFE・ATELIER。
 中に入ると右手がカフェ、左手がギャラリー。まず目に入るのが白い壁に赤い∞の形が無数に飛んでいるアート。「無限蝶」とタイトル(?)がある。
 正直言って、彼の芸術はよくわからない。絵画とも、彫刻とも、何とも名前の付けようがない。前衛。「コンテンポラリー・アート」と言うらしい。
 ただ、わからないなりに惹かれるのは、俳句でも同様だが、意味で分かろうとせず、感性で感じる、と言うことなのだろう。
「無限蝶」は山口氏の造語のようだが、無限大の形をした蝶の乱舞のイメージか。私にはブーメランのようにも、モミジの実のようにも、竹とんぼの様にも見える。他に、「予兆」「永らえば」「海調」「あの日の風」などのタイトルがついた作品に驚く。どこからこんな言葉を引き出してくるのだろう?
「タイトルは展示している最中に浮かぶのです」
 スペインで俳句もやっていると言う氏。その言語感覚は並ではない。
 カフェでコーヒーをご馳走になりながら、しばし雑談。どんな話題でもユーモアがあり、それでいて研ぎ澄まされた、回転の速い話しぶりにまたまた脱帽である。

 
 満足満足のひと時。小さな緑色の色彩が施された正方形の皿を一枚需めて、帰途についた。

(写真は「無限蝶」)
 

「レストランまんぼう」
2017年04月07日(金)
「レストランまんぼう」         
 故郷の姉から宅配でポンカンが届いた。開けるとポンカンに混じって、野菜やウツボの干物が入っていた。
 ウツボは、恐ろしい姿、形相で、とても食べられるとは思えない魚だが、高知県人はたたきや鍋にして食べる。
私は、一夜干ししたウツボを小さく切って、唐揚げにして食べるのが好きだ。からりと揚げたら小骨までカリカリとおいしく食べられ、ビールによく合う。
 ウツボの話をすると、「ようあんなもん食べるなあ」と、まるでゲテモノ食いのように驚かれる。しかし、食習慣はその地方、地域によって違うものだ。イナゴを食べる地方もあるし、カエルやカタツムリを食べる地域や国もある。それは食文化でもある。 
 マンボウや海亀も食べていたと言うと、また驚かれるだろうか。
 故郷の土佐清水市窪津では、大式網という定置網で魚を獲っているが、その中にマンボウや海亀が混じっていることがある。アジやサバ、イワシ、カツオやイカなどの普通の魚に比べて大きく、売り物にもならないので、港の市場に放り出されているのだが、捨ててしまうわけではない。欲しい人たちが適当に分けて持ち帰るのだ。
 マンボウの身は白くて、淡白な味である。サッと湯がいて酢みそ和えにしたり、鍋やすき焼き風にも出来る。
 カメは、固い甲羅があるので、ひっくり返して腹から切る。赤い身はすき焼き風に煮る。それは、牛肉など年に一度ぐらいしか食べられなかった私たちには大変なご馳走だった。カメの腹にはまるでピンポン玉のような真っ白な卵が入っていることもあった。触るとプヨプヨと柔らかかった。残念ながらそれを食べた記憶はない。
 「窪津を通ると窓からマンボウの匂いがする。窪津人は野蛮人やぁ」
 バス通学をしていた隣村の男子はこう言って私たちをからかった。確かに、カメやマンボウが放置されたまま、天日にさらされていると、独特の強い匂いがした。
「あんな美味しいもん、食べた事ないがやろ」と言い返したが、馬鹿にされた口惜しさは今も忘れられない。
 ふと考えた。ジビエ料理がはやりの昨今、海のジビエ料理があっても良いのではないか。「フランス料理風マンボウ」「中華風ウツボ」「海亀のステーキ」など、創作料理で、レストランを開く!
 その名も「レストラン・まんぼう」。夢想がふくらむ古稀の春……。

(これは、4月6日の山陽新聞夕刊に掲載されたエッセイです)
 

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